心をひとつに〜がんばろうNIPPON〜
収益金の半分は、JAFSの南三陸町被災地支援に、
半分は従来どうりアジアの井戸建設資金になります。
第57回JAFS松原ぞうすいの会
インドネシア・アチェから東北へ
復興への願い 虹のように
■日 時:2011年7月23日(日)12:00〜14:00
■ゲスト:シャフウィナ さん (インドネシア アチェ)
■お話し:アチェと東北、津波災害のその後と私のボランティア活動
■料 理:チキンカレー
ガドガド(サラダ)
スウィーツ(ココナツミルクとかぼちゃ、バナナ入り)
ケーキ(ブルーベリー入り)
■会 場:松原市立総合福祉会館2F
■協 賛:松原ボランティア連絡会
★★★★シャフウィナさんのお話内容★★★★
写真は南三陸町にて
★アチェについて
インドネシアにはスマトラ、ジャワ、スラウェシ、バリ、ロンボク、コモド、など多くの島に300の民族がいます。インドネシアは20世紀になってできた新しい国です。以前から、島ごと、地域ごとに多様な文化があります。
スマトラ島のアチェには10の民族がいます。アチェ族は海岸にいます。衣装は金糸をよく使ってピカピカにします。たとえば他のガヨ族は中部にいて、同じアチェでも言語はまったく違います。
ACEHのAとはアラビア、Cとは中国、Eとはヨーロッパ、Hとはインドを表すと言われています。交通の要地にあるので、いろいろな民族が混ざっていて、顔がインドネシアの他の地域の人とは違う印象です。
アチェの人々の宗教はほとんどがイスラム教です。女性は頭からこうやってスカーフをかぶっています。
インドネシアではイスラム教、キリスト教、仏教など個人が何の宗教を信じているかをはっきりさせています。日本人の感覚では分かりにくいかもしれませんが、無宗教というのはインドネシアではダメなのです。日本人がよく行くバリ島はヒンズー教です。
15世紀にはアチェ王国というのがあって、女性の王も5人いました。1873〜1904年の対オランダ戦争がありました。オランダに他の島は占領されても、アチェのみ自由を守りました。軍隊長には女性もいました。
アチェのコーヒーはおいしくて1杯35円くらいで飲めます。作り方はとても濃くいれます。砂糖をいっぱい入れてとても甘いです。昔は男だけの飲み物で、女性はお茶を飲んでいましたが、今では女性もコーヒーを飲みます。
★インド洋大地震 津波の日のアチェ(2004年12月24日7:58AM)津波の日は日曜日でした。普段の日曜日の朝を紹介しましょう。
皆、朝早くは祈りの時間です。祈りの後、コーヒーおお店で飲んで6時くらいに家に帰ります。水牛に子どもたちは草を食べさせます。農家の人たちは町に出て、朝5時から10時くらいまで市場で野菜を売ります。そんなのんびりした朝でした。
20万人近くの人が亡くなりました。40mの津波が来たのです。私のおじいさん、いとこも亡くなりました。大学の先生も亡くなりました。モスクだけが残って、皆で祈りました。被災者はテント生活が始まりました。
私の父の家は海岸から5?のところにあり、津波の最後の到達から1?のところで助かりました。
なかにはこんな話もあります。津波で夫が流されて助かった妻は再婚したのですが、なんと夫はスリランカまで流されていて3年後に戻って来たというのです!その後どうなったのか、私は知りませんが。
バスケットボールにしがみついて浮かんでいて助かった、いとこの男の子もいます。流されたときには、激しく動くのではなく、何もしないで流されるほうが体力を失わずにいいと言います。そのいとこは助かり、3日後に父も見つかりました。しかしその子の母も、妹も亡くなりました。
アチェの人は銀行にお金を預けません。そのかわりに「金」を買います。本当に全財産が失われたのです。
海岸から2?以内は家を建ててはだめだと言われているのですが、次の津波が100年後だったら構わないと言って、また同じ場所に家を建てて住む人もいました。
動物にはわかるのでしょうか。1日前に鳥たちはどこかへ行ってしまったという話も聞きます。
【ウィナさん提供資料】
被害状況 インド洋大地震 アチェ 東北関東大震災 東北
現地時間 2004年12月24日(日) 2011年3月11日(金)
午前7:58 午後2:46
マグニチュード 9.1-9.3 9.0
地表からの深さ 30km 32km
震源地 インド洋 太平洋
中心からの距離 バンダ アチェ市から250km 仙台市から125km
津波の高さ 5−42m 3−38m
津波到達時間 地震から24-25分後 地震から10-45分後
被害領域 8地域 6県
死者数 20万人 死者15327人+
行方不明者8343人6月1日
人口 バンダアチェ 264,618人 南三陸 19,170人
地震の後 219,070人 9,750人
45,548人(人口の17%) 9420人(人口の49%)
元の領域の広さ 64,8k? 163.74k?
水はオーストラリアの軍隊が浄水器の車で来て、海水から水を作りました。アメリカは船の中で医療活動を行っていました。
アチェでは半数の人が親戚や友人の家に避難しました。あとはテント生活でした。日本は避難所の建物の中でいる人が多かったです。日本は寒かったこともあります。日本では片付ける時もごみを分別していました。レスキューは、日本は30分後に来ました。アチェでは紛争地区なので12時間後になって来ました。外国のレスキューは3日後でした。
アチェでは津波以前に紛争がありました。1976年から独立運動があり、98年からの激しい戦いで1万人が亡くなりました。ですから外国人はアチェに入れなくなっていました。BRRという復興のための会社が作られ、窓口はそこに一本化されました。家や道も作られ、日本やアメリカは一番大きく復興支援事業に貢献しました。アジア協会はマングローブの植林を行いました。現地では日本と違い、パワーショベルなどの大きな重機も入れないところは、象が活躍しました。仮設住宅は半年後から作られました。それまではテントでした。日本ではもっと早く、3か月後から仮設住宅が作られています。日本では学校で防災教育が普段からありますが、アチェでは津波のあと、ようやく防災教育がはじまりました。
私はJAFSの田中さん、永井さんと一緒にJAFSの支援活動に参加しました。ダヤバルという場所がJAFS支援活動場所でした。折り紙を私は持って行きました。子どもたちが喜んでくれました。そして、破壊された海岸沿いに、マングローブの植栽を行いました。
★東日本大震災の被災地支援に参加・留意したこと
インドネシア大使館は地震後東北在住のインドネシア人を調べました。気仙沼に研修生がたくさんいました。大使館はバスで彼らを迎えに行きました。
私は自身がアチェで日本の支援を受けたので、私もお返ししたいと思いました。
南三陸町は金曜日の午後2:46分で皆さん仕事中の地震でした。
私はJAFSの第3次隊に参加して、歌津で炊き出しの世話をしました。
JAFSの東北支援に参加したときに留意したことがあります。
子どもたちの心のケアが大切です。アチェでもそうでした。
私は友だちと遊んだり、絵を書いたりする心の癒しに気をつけました。
また、津波で疲れた心を、おいしい料理でなごませたいとも思いました。
そこでココナツミルクなどの材料を持って行って、向こうでインドネシアのカレーを作りました。炊き出しメニューはもう決まっていたので、JAFSの青木さんが特別企画をしました。喜んでもらえました。
(余談)
アチェのときもトルコの人たちがケバブを作っていました。
外国人向けに外国レストランもたくさんありました。
けれども、コーヒーだけはアチェのコーヒーにはかないませんでしたので、新しくできたコーヒー店はお店を閉めました。
★ウィナさんの考える復興のありかた
支援の形は、可哀そう、だからあげる、特にお金のことばかりになります。が、お金を貰うだけではなく、一緒に復興に参加することが大切と思います。自分の村を立て直すことは、ただ貰うだけではなく、一緒に行うことが大切と考えます。
2006年のジョグジャカルタの地震の時は、ジョグジャカルタの王様は村人が一緒に家を建てることを勧めました。2004年のアチェの津波の時は村人は仮設住宅は、作ったものを貰うだけでした。故郷、ローカルコミュニティは大事です。復興でつくりあげる町の姿は、政府が決めるのではなく、復興後の村の形をどんなものにするか、その地域の人が一緒に考え、下からの動きとすることが大切です。時間はかかるのですが。
美味しいインドネシアカレーとお話で、大満足の昼下がりでした。
ウィナさんの笑顔が素敵ですね。 民俗衣装も美しかったです。