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Channel: アジア協会アジア友の会の地域グループ *****JAFS松原ぞうすい(雑炊・贈水)の会*****
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西田孝司さん 松原市の古道たち 長尾・竹内・中高野・下高野・住吉街道 第61回松原ぞうすいの会レポ?

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第61回JAFS松原ぞうすいの会
松原の魅力再発見 〜 歴史街道からマッキー

日 時: 2013年1月19日(土) 12:00〜14:00
ゲスト:西田孝司氏 (松原市文化財保護審議会委員)
       「松原の魅力再発見 〜 歴史街道から」
雑 炊: まつばら雑炊 
食材は 松原育ち‘まったら愛っ娘’& 合鴨スープ
上は松原市のマスコットキャラクター、マッキーです。可愛いですね。       

Think Globally,Act Locally〜いつも世界の諸地域の文化紹介している松原ぞ
うすいの会ですが、今回は足元の地域を大切にすることで歴史街道をテーマとしました。

第61回は、大阪府松原市を走る古代の道ぞいに、歴史的な場所をめぐるお話でした。
松原市で一番、という事は世界で一番、この松原の歴史に詳しい西田孝司さん(松原
市文化財保護審議会委員)を講師にお招きしました。歴史ファンだけでなく、地元松原
市に興味のある人たちが集まりました。

参加者のアンケートから

・西田先生のお話が勉強になりました。
・とても楽しく有意義な会合で、今後ますますの発展を期待しています。(U)
・こんな機会があるのをはじめて知りました。また参加します。(S)
・楽しいひと時で時間があっという間に過ぎました。雑炊美味しかった、また参加します。(M)
・雑炊が大変美味しかったです。西田先生のお話は何度か聞いていますが良かった(K、H)
・深い話を聞かせてもらってよかった。(W)
・松原に住んで20年ですが、ワクワクして聞いていました。貴団体の取り組みも知りたい。(T)

始まる前に、道沿いに点在する地蔵道標、古道の交差点などの写真を8枚参加者にみ
てもらい、ここは松原市のどこだか分かりますか?のカルトクイズをしました。なんと参
加者30目の中にお一人、全部分かるという強者がおられました。きっと、自分の住まれ
ている、この町を大切に思っておられることでしょう。聞けば、松原市のマスコットキャラ
クター、マッキーの可愛らしい金太郎飴を作ることを提案されたのも、彼ということで納
得しました。

松原中央郵便局前の長尾街道碑      阿保神社のくすのき大木です

東西の長尾街道に南から斜めに住吉街道が交差するところ。地蔵道標です。大阪でも最古の部類です。

中高野街道(新堂から岡へ)と交差する斜めの道、住吉街道です。
北へ行くと、上の写真につながります。

最初に明治時代に作られた、この付近の地図がレジュメのなかにはさんであり、当時は
古道と集落とため池、川のみがくっきりと浮かび上がり、背景はすべて田んぼや畑であ
ることが分かりました。古の姿に近いその地図を見ながら、4つの古道の説明を受けま
した。4つの古道とは、東西に走る長尾街道(大津道)、竹内街道(丹比道)、南北に走る
中高野街道、下高野街道です。

そのあと、点在する歴史的なポイントの説明がありましたが、特に河内大塚山古墳につ
いては西田先生のご専門でもあり、被葬者をめぐる謎を解くヒントが語られました。全国
で第5位の巨大古墳で、作られた6世紀中ごろに限れば、全国で1番大きなこの古墳の
ミステリー。雄略天皇から安閑天皇、欽明天皇、そして西田先生によれば実は何らかの
事情で空墓になった巨大古墳で、では入るはずだった人は・・・など、興味尽きないお話
が繰り広げられました。

全国第5位の大きさを誇る河内大塚山古墳。    阿保茶屋の交差点です。長尾街道(東西)と
昭和のはじめまで、この中には村もお寺も神社も。 中高野街道(南北)の交差点で、今もにぎやか。

謎の満面の笑みの彫刻石は、仁徳天皇の第3皇子である反正天皇にちなんだもので、
彼の名、瑞歯別命(みずはわけのみこと)にちなんだもの。生まれつき丈夫で立派な歯の
持ち主だったという伝説から、この歯磨き面の歯の部分をなでると、歯や歯茎にご利益が
あるという事で、彼を祭神とする祠の前にこの彫刻が設置されました。
まだ遺構は発見されていませんが、このあたりに「柴籬宮」を反正天皇がおいたということ
が伝わっています。5世紀ごろ反正天皇が第18代天皇として即位した後、都を難波から
河内の丹比(たじひ)に移し丹比柴籬宮(たじひしばがきのみや)を造営しました。
この柴籬神社(しばがき神社)の南側にはかつての参道の松並木の、最後の一本が、名
残に立っているのが今でも確認できます。ここが「松原」の地名の発祥の地かもしれません。

なにげない生活道路のあちこちに、深い歴史があることを知らされました。
奥が深い松原の話はとめどなく続き、あっというまに100分が経ってしまいました。

参考に以下に、今回の松原市域の古道についての西田氏の過去の記事を松原市HPか
ら紹介しておきます。興味があれば、さらに松原市のHPから検索してみてください。

 ★ 松原市HP→文化・スポーツ→歴史→歴史ウォーク より抜粋

『広報松原』に「歴史ウォーク」西田孝司氏 連載中 2012年9月号でvol.182

11.大津道と丹比道の敷設

長尾街道(大津道)の道標
(上田1丁目の松原郵便局前)
大阪府が明治43年(1910年)に建てた 歴史の絵舞台を演出した直線古道

 河内の国名は、淀川の「川の内の方」という意味に由来するといわれています。
 「川の内」に含まれる松原市には、大阪平野を東西に結ぶ直線古道として大津道(近世の長尾街道)が通っていました。また、その南、1.9キロほど離れて同じく直線古道の丹比(たじひ)道(近世の竹内(たけのうち)街道)も東西に走っていました。

 大津道と丹比道については、『日本書紀』の天武(てんむ)天皇元年(672年)7月条の壬申(じんしん)の乱における戦いの記述中に見えます。す なわち、7月1日、大海人皇子(おおあまのおうじ)(のちの天武天皇)方の大伴吹負(おおとものふけい)軍に属する坂本臣財(さかもとのおみたから)らは 河内・大和国境の高安城を占拠しました。翌朝、財らが西方を眺めると、大津道と丹比道の両道から大友皇子(天智天皇の皇子)の近江朝廷軍が高安山めがけて 押し寄せてくるのが見えたのでした。
 このことから7世紀後半にはすでに両道が存在していたことが明らかです。

 考古学的にも、近鉄河内松原駅の150メートル北側の長尾街道南側(上田2丁目)の発掘調査で、 道路側溝と考えられる幅 170センチ、深さ30センチの溝が検出されています。この溝から6世紀末から7世紀初めごろの須恵器や土師器 が出土しています。
 また、道路部分に相当する高さは、側溝の肩の高さより20センチ高くなっており、上面は平らに整地されていました。
 側溝をもつほど立派な古道でしたので、この遺構は長尾街道の前身と考えられる大津道であることがほぼ実証されたのでした。
 大津道は、堺市北三国ケ丘町の方違(ほうちがい)神社と奈良県北葛城郡当麻町長尾の長尾神社とを結ぶ道であると一般的に考えられています。市内では、府道堺・大和高田線と平行して、天美我堂-新町-高見の里-田井城-阿保-上田-西野々-一津屋を通っています。
 市役所・市民病院・商工会議所・警察署・松原郵便局など主だった官公庁は、いずれも大津道沿いにあります。大津道が、市内のメインルートであることがよくわかります。
 これに対し、竹内街道の前身とされる丹比道のルートははっきりしません。ふつう、先の方違神社で大津道と分かれ、堺市金岡神社前や羽曳野市野中寺 の南側を通って、大阪府太子町・奈良県当麻町境の竹内峠に至る道だといわれています。市域では、中央環状線と平行して、岡・立部を通っています。

 しかし、歴史地理学者の足利健亮さんは、羽曳野市郡戸(こうず)の大座間池(おおざまいけ)付近から、松原に入って立部 ・岡・新堂・高見の里・新町・天美に至り、大和川の手前の阿麻美許曽(あまみこそ)神社まで西北に延びる斜向道路の存在を指摘され、これが本来の丹比道で あると考えておられます。
 7世紀後半ごろまでに、大和でも南北の直線古道の上(かみ)ツ道・中(なか)ツ道・下(しも)ツ道が等間隔につくられ

いました。河内を通る大津 道・丹比道も大和の古道とほぼ同じころ、国家によって敷設された大動脈でした。これらの計画道路は、歴史の桧舞台を演出するモニュメントだったのです。

 33.高野街道を歩く
十二社権現堂と道標(いずれも新堂3丁目)
宮は旧社地を離れ、児童公園内に移されている。
道標も向きは変えられている。 古代にさかのぼる古道

 空海は平安初期の弘仁2年(811)、紀州の高野山に金剛峰寺(こんごうぶじ)を建て、同地で入定しました。のち11から12世紀ごろから、空海を尊崇する人々は、高野詣をするようになりました。
 京都の貴族たちが高野山に詣でるルートは何本かありました。ふつう、淀川を下って天王山麓の大山崎や大阪の天満橋、あるいは堺まで来て、陸路、霊山をめざしました。
 大山崎からの道は東高野街道とよばれ、生駒山地西麓を経て河内長野方面に向かいます。旧国道170号線がそれにあたります。
 一方、堺方面には三国丘の方違(ほうちがい)神社の南を通る西高野街道が走っていました。国道310号線はそれが発達したものです。
 この東・西高野街道にはさまれるかのように、市域にも中高野街道と下高野街道とよばれる古道が通っています。
 中高野街道は、北から南へ大和川に架かる高野大橋を渡って、三宅の屯倉神社前を過ぎ、阿保・上田・新堂・岡・丹南を結んでいます。近鉄河内松原駅前を南下するバス道は新道で、旧道は曲がりくねって、その西の松原幼稚園や松原小学校前を通っていました。
 下高野街道は、大和川の下高野橋から阿麻美許曽(あまみこそ)神社前を過ぎ、天美小学校を左に見て、西除川に沿って布忍神社前を通り、河合の古池に至るルートです。やはり曲がっています。府道大阪狭山線がそれにあたります。
 もともと、中・下高野街道は地形の影響をうけて、中位段丘上にできた集落と集落を結ぶ自然発生的な道としてスタートしたと思われます。これに対し、市域を東西に一直線に走る長尾街道や竹内街道(「歴史ウォーク」11)は国家計画によって作られたと考えられます。
 近世以降、高野詣が盛んになるにつれて、同道は主要な道路となり、中・下高野街道とよばれるようになったのでしょう。
 高見の里方面から、長尾街道と中高野街道をつなぐバイパスとなる住吉道が中高野街道と交差する新堂2丁目で6世紀後半ごろの橋が検出されました。
 橋梁部材は、川底に幅40センチ、厚さ10センチの板材を二重に敷き、その上に直径40センチ、長さ5mの丸太を横に並べて橋脚替わりにしたものです。橋梁の幅は10mほどになり、歩行部分は厚さ15センチの板材を2枚重ねて強度を保っています。
 こうした堅固な橋が川に架けられていたことから、同地には古道が古墳時代後半から存在していた可能性があります。
 橋梁検出地の東、新堂3丁目の良念寺門前には、新堂の鎮守ですが高野詣や熊野詣の遥拝所もかねた十二社権現宮が祀られていました。戦国時代の永禄年間 (1558~69)の創建と伝えています。今は廃寺ですが、真言宗の東之坊境内に本殿・門・木鳥居が作られ、同寺住持が管理していました。
 また、街道沿いには天保5年(1834)造立の「かうや」道を示す道標も現存しており、歴史街道のなごりを今にとどめています。


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